1月体験会は雪なしでお休みとなりました。そこで、おしゃべりになりました。興味がおありでしたら聞いてください。

昔、北大路魯山人という人が「聴雪」ということを言ってました。彼は料理の大好きな人でしたが、「美味しい」というのは、味・香り・食感など三拍子が揃って初めて美味しいと言うのだ。とこう言い、更に、食べ物を盛る器なんか食べる部屋なども工夫して魯山人の感性でしか表せない料理の一つの世界を築いた人だと思います。今、高級料亭のお客さんをもてなす、その理念はこの魯山人が最初に築いたといえるのではないでしょうか。料亭の敷地に入った時点から、玄関をくぐり廊下をわたり料理を食す部屋に至る、すべてが料理でもてなすためにあつらえられた特別空間となり、もちろん料理の食材は最大限吟味され、それを盛る器も工夫され、それこそお客さんに全身全霊で料理を楽しんでいただくという贅沢なおもてなしの考え方だったんだろうな、と私は想像しています。

前置きが長くなってしまいましたが、私が想像する魯山人の全身全霊は、五感を全て使った全身で料理を味わってもらう、こうした理念ではなかったか、と私には思えるんです。更に、理念とは心の持ちようのことですから、ただの五感でない、精神性というか、生き方というか、こうしたことも含まれているだなと思います。

その彼の料理に対する理念・精神性が「聴雪」という一言の言葉で表されている。初めてこの言葉を知ったときは何のことか全くわからず、関心がありませんでした。雪は見るものであって、きくものであるなんて。意味わからんでほっときました。最近になり、禅語に興味が沸いて、この言葉にまた出会いました。臨済宗の流れを組む中国南宋時代の虚堂禅師の言葉だそうです。その意味は「心で聞き、心の眼で見ることがなければ、本当のところは分からないし、あじ(味)わえない」だそうです。雪の音を聴くと、雪の気配を感じるほどの心静かな心境を表している言葉であり、全身であるがままの自然を感じるという心境を示しているとの意味もあるそうです。

なにか、森林セラピーを体験している私たちの目指している心境にも似たところがあるような、遠い遠い心境ですが、すこしでも近づけるように励みたいと思えるのです。

話が変わるのですが、白隠禅師の言葉に

「耳で見分けて、目で聞かっしゃれよ。夫(そ)れで聖(ひじり)の身なるぞや」

耳で見て目で聞くとは一見理解できない表現ですが、本来、五感はそれぞれ独立した単純な世界ではない、こんな意味なんだそうです。

現代に生きる私たちは森や自然から離れて暮らして約2000年の時を過ごしていますが、古(いにしえ)の日本人の感性はなんてすばらしいか。

どうしたら、こんな感性に触れることができるのでしょう。

雪の静寂の季節は過ぎましたが、私たち森林セラピーフアンは、古人の言葉を振り返りながら、心静かにセラピーロードを散策して、その静寂の中で、自ら見えてくる、聞こえてくる、香ってくる、触れてくる、その世界を大切にしていきたいものです。

中国武漢コロナの影響で、自宅待機はそろそろ限界。最近思うことをつれづれに書いてしまいました。共感していただける方、コメントください。

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